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2009年 01月 30日
1月30日(金)をもちまして、渋谷ユーロスペースでの上映は終了いたしました。
ご来場の皆様、誠にありがとうございました。 引続き、大阪シネ・ヌーヴォ(2月28日(土)~)、名古屋シネマテーク(3月21日(土)~4月3日(金))、高崎映画祭(4月5日(日))、広島サロンシネマ(4月11日(土)~4月24日(金))、川崎アートセンター(5月16日(土)~6月5日(金) )、札幌シアターキノ、京都みなみ会館、金沢シネモンド、神戸アートビレッジセンター での上映もございます。 お近くにお住まいの皆様、どうぞ足をお運びください。 詳細はコチラ→http://www.chechen.jp/theater.html 他地域での上映の情報は公式サイトにて逐次アップしてまいります。 どうぞ宜しくお願い致します。 #
by chechen-alexandra
| 2009-01-30 17:29
2009年 01月 23日
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by chechen-alexandra
| 2009-01-23 18:59
2009年 01月 17日
『チェチェンへ』若松孝二監督トークショー
2009.01.17@ユーロスペース 2009年1月17日(土)、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)を公開している渋谷・ユーロスペースにて、同映画の上映後、映画監督の若松孝二さんを招いてのトークショーが開催された。 若松孝二監督は、1936年生まれ。1963年ピンク映画『甘い罠』で監督デビュー、ベルリン映画祭で話題騒然となった『壁の中の秘事』(1965)以後、100本を超える作品を撮り続けている。 2007年『実録・連合赤軍-あさま山荘への道程』で東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門作品賞受賞。第58回ベルリン国際映画祭にて最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞。 現在、次回作『芋虫』(江戸川乱歩原作)の映画制作に力を注いでいる。目下スポンサー募集中!! トークゲスト:若松孝二監督(◆) 司会:吉川正文 於:渋谷・ユーロスペース ―本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます。 映画監督の若松孝二さんをお招きしてお話を伺って参ります。よろしくお願いいたします。 ―早速ですが、若松さんは1936年生まれと言うことで、子どもの頃に戦争を経験していらっしゃいます。戦場では、いわゆる普通の人が、殺しあったり、強盗、強姦、拷問したりしてしまい、それはどこの地域でも同じようなことが起きてしまう・・・このことについてどのように思いますか? ◆僕は、終戦がちょうど、小学校3年生。仙台の大空襲のとき、少し離れていたところに住んでいて、焼夷弾が線香花火のように降ってきて、勢いよく燃えるのを遠くに見ました。そういう時代で、とにかく飯が食えない・・・毎日、じゃがいもとサツマイモしか食えない。家は百姓でしたが、米を作っても全部持ってかれてしまった。だから、戦争は絶対に嫌だと思っています。1972年にパレスチナに行き、今日の映画(『チェチェンへ』)と同じように、前線を歩いて取材したドキュメンタリーがあるのですが、どこも同じように若者が前線に行くわけです。前線から戦いに行き、帰ってこない人もいたし、血だらけになって帰ってきた人もいた・・・それはパレスチナのコマンド(ゲリラ隊員)ですけど・・・。1982年にはベイルート(レバノン)の、シャティーラというパレスチナ難民キャンプに(イスラエル軍による)大虐殺があって、その2日後に入ったのですが、そのキャンプというか、いわゆるひとつの村に死体の山。しかも女性と子どもだけ。何故かと訊くと、「子どもは大きくなると必ずコマンド(ゲリラ隊員)となって我々の敵になる、女性は子どもを産むから、みんな殺してしまう」と・・・。兵隊は皆若いので、殺す前に女性をレイプしたり、殺した後に火をつけたりする、など、必ずそういうことをしてしまう。そういうことを幼いときに、自分の目で見てしまったら、大きくなっても怨み辛みをずっと持ち続ける・・・パレスチナはよく自爆テロが多いといいますが、僕なんかはそういうのをある程度わかるような気がします。だから、戦争っていうのは、正義の戦争っていうのは絶対ないし、平和のための戦争もないし、戦争は殺すか殺されるしかない。 ―イスラエルは2月に選挙を控えていて、支持率を上げるためにこの戦争をしている・・・事実、イスラエル国内ではこの戦争に対する支持率が9割を超えているということです。この映画の舞台、チェチェンでも、戦争のきっかけはエリツィンの支持率が低下していたことにあり、戦争を仕掛けたことで支持率が跳ね上がった・・・その戦争で殊勲をたてたプーチンが次の大統領になった・・・戦争が政治の道具になっているわけですよね? ◆権力を握ろうと思っている者たちに、一般の弱者が利用されている。映画でも描かれていたけれど、若い人たちが、戦争の前線に行き、装甲車に乗る。みんな若い。日本だって、かつての戦争で、学校を卒業するかしないかの若い人たちがたくさん徴兵されて行った。そういうことがあるから、政治的歴史というものをもっともっと認識してほしいと思う。3,4日前に東大安田講堂事件をテーマにしたテレビ番組があったけれど、最後に原作者の佐々淳行(大学闘争を抑える警察側の現場指揮担当者)が出てきて、「今の若者は本当に怒らなくなった。当時の若者は怒ってああいうことを起こした。なぜ、今の若者は怒らないのか」などと言っていた・・・。おまえに言われたくないよって、取り締まっていたのはおまえじゃないかと思ったけどね(笑)。今の時代、闘争とかないし、予算取りにくいから、そんなことを言っているんじゃないかと思うよ。最近のデモは機動隊の方が多いし。 ―そうですね、機動隊がデモの後をずっとくっついてきますね。日本は公安警察が頑張りすぎているのですかね!?みんな去勢されて、骨抜きにされて、逆に佐々さんのような人に焚きつけられているのではないでしょうか。 ◆僕がつくった『実録・連合赤軍‐あさま山荘への道程』にもあるけれど、連合赤軍のあさま山荘事件によって運動が失速した・・・。イラク戦争でもアフガンでも、日本人の若い人たちは本当に怒らなくなっている。勇気を持って立ち上がることがだんだんなくなった。それとやっぱり年配の人たち、僕たちもそうだけど、昔、こういうことがあった、なんのために起きたのかということを伝えていかないといけない。団塊世代の子どもの子どもが今の若い人たちですから。団塊の人たちは自分たちがやってきたことが後ろめたくてそっとしている。まぁ、最近になってその頃戦っていた人たち、いろいろな人たちが顔を出すようになってきて、よい傾向ではあるけれど。 ―少し、話が変わりますが、戦争に借り出されるのは若い人たち。それから、チェチェンゲリラもそうですし、連合赤軍も日本赤軍もそうですが、皆若い人がやっていたわけです。それについてはどうお考えですか? ◆若くなくっちゃできないんです。戦争というか、権力者が騙すことができるのが若者。結婚して子どもが何人かいたりすると戦争に行って死にたくないと思うだろうし、自分の家族を思ったらできない。だから、ほんとにそういう若い人たちを上手くおだてて戦争に行かせる。アメリカだってそう。お金のない人たちや、マイノリティの人たちに、市民権を与えるとか何とか言いながら、どんどん戦場に送り込む・・・で、自分たち金持ちは行かないという・・・それが戦争。だから正義のための戦争なんてないんだよ。 ―若者が権力に立ち向かうのは? ◆韓国では李承晩大統領を辞任に追い込む事件(1960年)があったけれど、これは高校生からはじめて、大学生にも広がったんだよね。この間の牛肉事件も高校生が動いた。日本の高校生がもしここにいたら聞いてほしいけれど、高校生なんて捕まってもたいしたことないんだから、行動を起こしてほしいよね。派遣切りに遭った人たちが公園に集まって仕事ないとかなんとか言ってごちゃごちゃしているけれど、全員で国会に突入しちゃえばいい。そしたら暖かいところで3食食えて眠れる。まぁいいとこ20日くらいの拘留。20間ご飯食えて、行動を起こすことでマスコミが取り上げてくれる・・・政府も黙っていないだろうし。そういうことを勇気を持ってやりなさいって僕は言いたい。ただ、仕事がない仕事がないって言ってさ、俺より良い物着てるからね、みんな。なんにもしないでいるっていうのは俺は同情しないんだよ。で、あそこで炊き出しやっているっていうのはどっかの党派でしょ。言いたくないけど、みんな自分たちの組織を守るためにやっているだけであってさ。みんな怒ればいいの。国会が近いんだからさ。みんなが一気に突っ込んでいけばいいんだよ。みんなが一斉に捕まったら、牢はいっぱいになるし、向こうも困るだろうし。今、全部暖房付ですからね。僕たちの時代とは違う(笑)。ほんと、今、1000人くらい捕まったら面白いだろうね。全共闘の争いで、最高捕まったのが470人くらいかな。このとき警察はたいへんだったんだから。 ―お話をもっとお聞きしたいのですが、時間がそろそろということです。最後に次回作、次々回作について少しお話ください。 ◆次回作は、今、脚本第1稿があがって、今、第2稿目に入っています。江戸川乱歩の『芋虫』が原作。太平洋戦争の話。満州に行き、多くの中国人を殺すも、自分もやられて、芋虫のようになって、多くの勲章と新聞記事と共に帰ってくる男の話。“戦争はいろんな人に不幸を与える”っていうことを僕は言いたいし、撮りたい。その後に、もう1本、自分で考えて撮りたいと思っているのがあります。もう1本、もう1本とだんだん欲が出てきているから、きっと死ぬまでやってんでしょうね。 とりあえず、次回は満州、中国ロケありで、撮ろうと思ってます。 ―本日はどうもありがとうございました。 #
by chechen-alexandra
| 2009-01-17 23:22
2009年 01月 13日
『チェチェンへ アレクサンドラの旅』公開記念イベント
あがた森魚ミニライブ 2009.01.13@ユーロスペース あがた森魚さんは、1972年に「赤色エレジー」でデビュー。20世紀の大衆文化を彷彿させる幻想的で架空感に満ちた作品世界を展開している。 本日は、「春の嵐の夜の手品師」「赤色エレジー」の2曲を歌い、観客を独自の世界観へと誘った。 2月22日には自身の祝還暦記念イベント“『惑星漂流60周年』in東京”が九段会館にて開催される。 あがた森魚公式サイト http://www.agatamorio.com/ blog 惑星漂流60周年! http://agata60.seesaa.net/ #
by chechen-alexandra
| 2009-01-13 22:15
2009年 01月 12日
2009年1月12日(月)、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)を公開している渋谷・ユーロスペースにて、同映画の上映後、ジャーナリストの常岡浩介さんを招いてのトークショーが開催された。 常岡浩介さんは、長崎放送の報道記者を経てフリーとなったジャーナリストで、チェチェン、アフガニスタン、イラクなどイスラム世界の紛争地域を中心に取材している。チェチェンゲリラに従軍したり、ロシア警察に拘束されたりなど、経験豊富。今月中旬には、ガザ取材を予定している。 トークゲスト:常岡浩介さん(◆) 司会:吉川正文 於:渋谷・ユーロスペース ―本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます。 短いお時間ですので、早速、お話を伺って参ります。 ―400年もの間、大国ロシアに抵抗し続けているチェチェン人とはどのような民族なのでしょうか。そしてなぜ、カフカス地域を含め、チェチェンにロシアが戦争を仕掛けるか、その歴史的な背景を少し教えてください。 ◆ロシアというものはもともと、モスクワ、キエフのような都市国家のようなもので、そこから、広大なシベリアからカフカスの地域まで、征服してできた大国なのですね。それに対し、チェチェンという国は山岳地帯にあり、周りの地域から隔絶されたような感じで、5000年前から、ずっと自分たちの伝統を守り続けて生活してきたのです。そこへロシア帝国が征服しようとやってきた・・・そのときからずっと抵抗を続けてきた国です。400年ほど前に征服が始まった頃から、だいたい50年ごとにチェチェン人による蜂起が繰り返されているわけです。そのたびに人口の3分の1が殺されたり、4分の1が殺されたり、そういった状況が続き、今の戦争は1991年からで、もともと100万にいなかった人口が、すでに、4分の1殺されたといわれています。 ―チェチェン人特有の民族性があるのでしょうか? ◆いえ、ロシアにロシア民族は55%しかおらず、残りの45%はいろんな少数民族なのです。すべて、征服されて、支配下に組み込まれた人びとで、征服されるときには、チェチェンに限らず、相当な抵抗戦争が起こっていました。それにも関わらず、チェチェンが目立っているのは、密かに地下抵抗運動を行うのではなく、正面からロシアに刃向かうということをずっと繰り返しているからだと思います。また、チェチェンでの戦争が残酷なものになっているのは、勇敢に戦った者が賞賛されるというチェチェン人の民族性が背景にあり、徹底的に戦うという姿勢を崩さないからです。 ―チェチェンの歴代の指導者が、皆、暗殺されたり、戦死したりしているのはなぜでしょうか? ◆世界にはいろいろなゲリラ組織がありますが、ボスが殺されると戦争が終わってしまうところが多いです。また司令官の暗殺合戦か、鉄砲玉のように出て行く若者が殺されるケースが非常に多い・・・ですが、チェチェンの場合、指導者が自ら先頭に立って戦い、撤退するときは一番最後に戻る・・・怪我人がいたら自ら担いで戻る・・・そうしないと誰もついてこないような社会なのです。そういう状態で戦うので、大統領や最高司令官から順番に死んでいくのです。 ―常岡さんは、チェチェンゲリラと日常をともにしたということですが、その経験をお聞かせください。 ◆1999年から取材を続けています。ロシアが完全に制圧していないこの頃まではチェチェンに入れたのですが、2000年から2001年にかけて、どうしてもチェチェンに入れない状況になりました。そのとき、グルジア(チェチェンの南隣)の山の中にチェチェン人の村ができ、そこへチェチェンの国防大臣が入り、部隊の組織を始めたのです。そこへ私も入り込み、1年半、村で一緒に生活しました。2001年には、チェチェンに戻るという作戦部隊に従軍し、約6ヶ月山の中をさまいました。 ―カフカス地域というのはいろいろな民族がいるということなのですが、チェチェンの部隊にもいろいろな民族が関わっているのでしょうか? ◆基本的にロシアの少数民族はロシアの支配に苦しんでおり、不満を持っている人たちが、おおっぴらに独立宣言をして、正面から戦っているチェチェンに集まり、一種の代理戦争をしているという感があります。 ―ゲリラの日常生活はどのようなものでしたか? ◆基本的に、イスラムの信仰の自由を守るために、挑まれた戦いは、ジハードとして戦わねばならないという宗教的義務があります。それに基づいて戦う組織であると自分たちを定義づけていましたので、毎日きっちり礼拝をし、規律も守り、禁欲的です。夜になると“聖戦とはどうあるべきか?”とか、戦い方について論争をします。山の中では、食料がまったくなく、水も泥水を啜るような状況で、私は20kgくらい体重を落としてしまいました。ところが、チェチェン人は、同じような衰弱状態であるはずなのに、精神的パワーがまったく落ちないのです。チェチェン人よると、自分たちは精神修養ができているから、精神的な辛さ、死への恐怖も乗り越えてしまうとのことでした。実際、その強さを目の当たりにすると、そうなのかなぁと思ってしまいました。 ―それだけの多民族、多宗教の人たちが集まっているゲリラ集団の結束は固いのですか? ◆それがそうでもなく、山の中にいるときに、お金を奪われたことがあります。それだけではなく、そのグループから、撮影したビデオテープなどを狙われたりしました。お金というのは誰でもあり得ることだと思うのですが、ビデオテープやフィルムとかですと、意味がわからない・・・今にして思うとロシア側のスパイがいたのだろうなと考えています。 ―ジャーナリスト活動をカフカスでしているときに、ロシア警察、FSBに身柄拘束された経験があるとの事ですが、その時の様子をお聞かせください。 (※FSB:ロシア連邦保安庁、諜報活動を行う治安機関。旧ソ連のKGBを継いだ組織。) ◆2004年7月にロンドンで故リトビネンコ(元FSB中佐)のインタビューを行った際、FSBの実態を生々しく語ってもらいました。そのとき、伝聞だけでなく、FSBに実際に接触しなければならいないと感じました。自分自身FSBの存在を感じることがあったし、チェチェンの市民がFSBに誘拐されて殺されることを恐れていたので、なおさら・・・。そこで、FSBの活動が一番活発であるといわれているイングーシ共和国(チェチェンの隣国)に入りました。入って数日で、FBSに拘束されました。留置所に入れられたのではなく、イングーシ内務省の取調室に、安ホテルから毎日通わされました。パスポートなどはすべて取り上げられていたので、そこから動くこともできず、夜中までの拘束が16日間続きました。日本大使館に連絡したところ、イングーシ側からの連絡が行っておりませんでした。これは日露間の領事条約に違反とのことで、日本政府が抗議声明まで出したのですが、ロシアは拘束を解いてくれず、結局裁判を受け、“GPS機器の違法持込”と“違法取材”の二つの用件で有罪判決を受けました。最初のうちはイングーシ内務省の一般的な警察が取調べを行っていたのですが、最後の何日かはマガスという街にあるFSBイングーシ本部に連行され、直接FSBから尋問されました。 チェチェンではとにかくFSBが恐れられていました。なぜかというと、FSBが村を襲ってきて、略奪し・・・、10代から60代の男性を連行し、拷問するのです。大半は帰ってくるのですが、中には帰って来ない人もいて、その人たちは釈放されたことになっているのだけれど、帰って来ず、あとで山の中で、目がくりぬかれたり、腕や脚が切り落とされたような死体で発見されるということがあるのです。また、その死体をFSBが回収し、家族に対し、死体を返して欲しければ1万ドル用意しろなどと要求するわけです。 FSBであったリトビネンコから聴いた話では、FSBは最初から組織的に、資金源活動として、チェチェンでの誘拐、略奪をしていたとのことです。また、チェチェン人を悪者にするために、モスクワのアパート連続爆破事件を起こしたとも話していました。当時、自身がFSBであったリトビネンコの話を、どこまで信じていいものかと思いましたが、後に殺されて、殺されなければならないほどのことを、彼が語っていたのだと実感しました。 ―FSBに拘束されて、その恐怖感は? ◆自分で、どんな形でもFSBに接触したいと思って行ったのですが・・・、まず初めは、イングーシの一般の警察に拘束された認識だったところ、一旦、ホテルに戻されたときに、自分の部屋が荒らされた跡があり、パソコンもパスワードが解除されており、ぞっとしました。最終的にFSBに引き渡されたとき、彼らは露骨に脅しをかけてきました。このままだと8年間刑務所行きだとか・・・。しかし、一番怖かったのは、FSBから釈放されて、モスクワの空港で自由になったときです。チェチェン人で、FSBに誘拐されて殺された人のほとんどが、FSBの釈放の書類にサインをして、解放された後に、行方不明になって死体で発見されるというパターンなのです。結局、拘束しているとはっきりしている間は、彼らが責任を問われるわけですから、その間はそうそう酷いことはできない・・・チェチェン人にはしていても、日本人で、大使館にも連絡がついている人間にはできないはずなのです・・・が、釈放された後となると、地下鉄に乗るにしても、誰かから線路に突き落とされるのではないかとヒヤヒヤしました。 ―チェチェンやグルジアなどのカフカス地域は今も不安定な状態で、今後も緊張状態が続くと思いますが、常岡さんがこの地域を取材する事で訴えかけたい事は何でしょうか。 ◆イラクやパレスチナ、ガザの戦争は、皆が知っているけれど、チェチェンの、民族殺戮・・・人口の4分の1が殺されている無茶苦茶な戦争・・・という問題がずっと続いているということは、話題にならず、あまり知られていません。中東の戦争は、当事者以外の国々の利害が絡んでいて、解決できなくなっていますが、アフリカやチェチェンの戦争は、誰にも注目されないから、当事者が無茶苦茶をやり続けているように思います。注目されないから、戦争がなかなか終わらないという側面もあるのではないでしょうか?だから、利害のない日本のようなところで、チェチェンでそのような問題があるということを広く伝えることが、重要なのだと考えます。 ―ありがとうございました。 #
by chechen-alexandra
| 2009-01-12 23:10
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